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Channel: スポーツナビ+ タグ:今岡
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新たな背番号と共に、いざレジェンドに向けて

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 今から3年と4か月前の、2009年8月24日。 背番号1を背負った、漫画では当たり前の「エースで4番」が甲子園球場でひときわ輝いていた。 といっても、漫画であるような体がとてもデカい、というタイプではなく、見た目は華奢で「4番としていけるのか?」と思わせるような男であった。 だがその日、7度目の甲子園優勝を目指すチームの中心に、間違いなく彼はいた。 初回にライトスタンドへ先制ホームランを放ち、勝ち越しのタイムリーも放って打撃でチームを勢い付けた。 が、肝心の投球の方で彼は最終回に余裕の展開であった試合展開で崩れてヒヤヒヤの優勝というものを演じてしまい、試合後のインタビューでは、おそらく優勝インタビューでは甲子園史上初であろう、涙を伴うインタビューとなってしまった。 だがその投手としての失敗が、後々を考えると良かったと自分は思っている。 その年の10月、彼はドラフト会議で、春に甲子園で優勝した長崎清峰のエース、今村猛に次ぐドラフト2位で広島東洋カープに入団することになる。 チームは内野手として指名したが、堂林は投手を出来ないことに未練は無かったのか、あっさりと承諾。これは甲子園での悔しさがあったからかもしれない。それとも投手に拘りが無かったのか。だがいずれにせよ、この決断が後の彼を大きく変えることになる。 そして始まった広島でのレギュラー獲りに向けてのサクセスストーリー。  1年目から彼は2軍で積極的に起用され、フレッシュオールスターではホームランを放ってマスコミに印象付けた。 だが、それ以外ではマスコミに注目されることは無く、7本塁打を放ったものの、100を超える三振という不名誉な記録だけが印象に残って1年目を終える。 そして2年目。 彼はある目標を地元のテレビ局に向かって発言する。 それが、「自分の二十歳の誕生日までに1軍に上がる」ということであった。 もしかすると、少しでも注目を浴び、それを糧に頑張りたいというものがあったのだろうか。もしかすると、2年目に春季キャンプに呼ばれ、更にはオープン戦で代打として起用されて、少し1軍への欲が出たのだろうか。 だが、それが自分へのプレッシャーになることを、まだ二十歳にも満たない若者は分からなかったのかもしれない。  結果、二十歳までの誕生日どころかその年の年間通して2軍で過ごすということとなった。成績面でも三振数自体は100個を切ったものの、本塁打数が1本と激減。1軍に上がりたいという焦り、そのためには三振数を減らさなくてはという焦りから、1年目のフレッシュオールスターの時に見せた思い切ったスイングというものが鳴りを潜めたのかもしれない。そのことに、自分は密かに不安を抱いていた。  だって、君は才能があるんだ。あの5万人を超える人々が見ているあの試合で、当時18歳であった君は美しい放物線で甲子園の右中間に本塁打を打ったんだ。そんなこと、出来る奴なんてなかなかいない。だから君には、焦らずに2年間は2軍でみっちりと鍛えてもらいたかった。そうしたら、必ず3年目、4年目に1軍に上がれるきっかけが出来るから。そう信じて、彼の積極性が失われることを年々恐れていた。 しかし、転機は3年目の春季キャンプに訪れる。 野村謙二郎は常々彼に関して「積極的なスイングの結果、凡退したなら納得する。けども、見逃しなど、消極的なスイングの結果凡退したら、即1軍から落とす」と檄を入れていた。  もしかすると、野村謙二郎は気づいていたのかもしれない。 1軍に上がろうと焦りすぎて、彼本来の思いきりの良いスイングが鳴りを潜めていたことを。だから敢えて、あのような言葉を投げかけたのかもしれない。その方が堂林にとっては良かったと野村謙二郎は判断したのかもしれない。 それはある意味では賭けである。仮にその言葉で積極的にいきすぎて凡退を繰り返し、焦って次からは球を見始めたら監督に怒られる。だから積極的に戻そう。だけどそれでも凡退する。だからまた球を見ようという感じになれば、明らかにデフレスパイラルに陥る。 だが、野村謙二郎は堂林の才能を始めから信じて、この言葉を投げかけたのである。それと同時に、野村謙二郎はこうも言っていた。 「彼の成績が良くない時は使っている私が責任を取ります。彼が活躍するまで、私は彼を信じようと思います」 時に厳しく指導し、時に優しくかばってあげる。まさに監督としての役割を、野村謙二郎は果たそうとしたのである。つまりは、144試合全てに彼を出すことを、シーズン開幕前から宣言していたようなものであった。  そして迎えた2012年3月30日、ナゴヤドームでの中日戦。 会場は高木新監督初采配試合、武井咲の始球式などで盛り上っていたが、彼にとっては、そんなイベント以上に大切な日を迎えていたのである。 「7番、サード、堂林」 2年目、焦った勢いで言ってしまった「二十歳の誕生日までに1軍の試合に出る」。 その夢は1年余り遅くなったけど、「二十一歳の誕生日までに1軍の試合に出る」という夢は果たすことが出来たぜ、翔太。 そう野村謙二郎は呟いていたかもしれない。 「俺はお前と今年は心中するからな、頼むよ翔太」 同時に、そう心の中で言っていたかもしれない。 周りは彼の開幕スタメンに驚いていたが、野村謙二郎の頭の中ではこれは「想定内」だったのである。 それからというもの、彼はどんな時でも試合に出続け、ついに4月中旬には思い出の地、甲子園球場でプロ初ホームランを放った。 「これで、1軍選手として認知されたな、翔太。「翔太と心中」メッセンジャーは、この俺だからな」 初本塁打を打った相手、阪神のランディ・メッセンジャーにちなんでこう呟いたかは謎であるが、野村謙二郎はたいそう喜んだに違いない。 その後はもう書かなくても皆さんご存知であろう。 交流戦終盤での爆発、オールスター初選出、2桁本塁打到達、そしてWBCの練習試合で、キューバ代表の投手から三塁打を放ち、先制点に繋がる活躍をしたことを。 そんな活躍を見て、野村謙二郎はついに決意した。 「よし決めた。俺の番号は、あいつに譲ろう。それが俺からの、1年間頑張ったことに対してのクリスマスプレゼントだ」 そう、背番号13、「広島のA・ロッド」から、背番号7という、「野村謙二郎の番号を継承する男」になったのである。 自分としては、野村謙二郎の背番号7は偉大であると思っている。 時にチームを励まし、そして自らを鼓舞するリーダーとしての野村は、自分は一番好きだった。 勿論、走・攻・守全て揃うショートしても、贔屓目無しに12球団一だと思っていた。 そんな偉大なショートから受け継がれる、背番号7。 けども自分は、堂林からは野村謙二郎並みの、いや、それ以上の何かを感じている。 それは、2009年8月24日のあの本塁打を見た時から感じていたのかもしれない。 「こいつ、大物になるぞ」 という思いを。 広島では背番号7というと、野村謙二郎という左打ちのショートを思い浮かべるわけであるが、他球団を見ると、右打ちの内野手が意外にも付けていた。 昔でいえば豊田泰光、石毛宏典。 最近でいえば井口資仁、今岡誠、二岡智宏、田中浩康、片岡易之に山崎武司といったところが付けている。 どの選手も実績を残している選手ばかり。堂林と比べると、とても偉大ではある。 けども、ここに堂林が名を連ねるためには、来年以降が本当の勝負となる。 勿論、今年以上のプレッシャーが来るだろう。今年以上にマークがきつくなるだろう。 けども、この男は常に君の味方だ。 「来年はレギュラー白紙なんて言っているけど、何だかんだで翔太は使うんだろうな。なんだか、子どもを見守る親みたいだ」 そう、野村謙二郎である。彼は堂林にとって、プロにおける恩師だと、自分は上記のエピソードを基に勝手に想像した。が、それは強ち間違いではないと思う。それを証明するのが、全試合出場、球団史上最多である150という三振数という記録である。 実際、三振展に行った人が「堂林の三振シーンって、空振りが多いいんだね」と言っていた。 つまりは、これだけ三振をしても試合から外さなかったのは、野村謙二郎が常々言っていた教えを忠実に守った堂林をしっかりと見てみたということになるのである。 それを続ける限り、野村謙二郎は常に彼を起用していくと、自分は信じている。だって、彼の綺麗な放物線を描く逆方向へのホームランをもっと見たいもの。 といっても、レジェンドへの道のりは長い。 それは広島のレジェンドになった野村謙二郎自身が分かっていることであろう。 だからこそ、堂林には敢えて厳しい言葉を掛け続けているのである。 けども、俺はしっかりと君を見ているぞというメッセージはいつも発信するという、優しい面も見せている。 そう考えると、野村謙二郎は監督になっても偉大だと、どこかで思う自分がいる気がしてならない。※今年は「~プリンスレギュラー日記~週刊堂林翔太」なるものを送ってきましたが、来年は名前を変えて、「~プリンスのレジェンドへの第一歩~週刊堂林翔太」としてお送りしたいと思っております。スポーツ魂!!は堂林の強力なスポンサーとして、これからもしっかりと成長を見届けたいと思います。なお、スポンサーとしての契約期間は、彼がカープを引退するときまでです(移籍した際はまた考えます(笑))

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